ノットボディポジティブ
私が私をよしとすること
こそが現代では困難で、誰もが何かの、誰かの、社会的な承認を求めてしまう。それが悪いとは言わないけれど、なんだか過剰すぎないか。
「私」が良ければそれで良いじゃないかと思う。
とっても良い活動のはずなのに、ボディポジティブとされる運動が私の目にはなんだか奇妙に見えて、上手く飲み込めないところはそこにある。
どうしてそこまで、何かをこき下ろさなきゃお題目を唱えられないんだろうか?
私が社会悪を倒した、攻撃したので褒めてください。
これで私も先進的な思想の仲間入りですね。
って感じだ。
なんだかすごい面倒臭いし、とてもじゃないけれど、そんな輪の中には入りたくないし、絶対に入れない。
イイネが欲しい。承認してください。
あるいは私はここにいますという痛々しい叫びなのかもしれない。
だって、私が私をよしとして祝福し、認めるのならば誰かへの攻撃なんていらないし、誰かからの攻撃も屁にもならないはず、とまでは行かなくてもそこまで過剰反応しなくて良いはずだ。だって、私が私に祝福をくれるから。
私が私を認めてくれるのなら、大多数の他者は脇役に過ぎない。
なんだかモヤモヤすることを過疎化したこの地で王様はロバの耳をしてみる。
きっと異端審問にかけられて焼かれてしまうだろうから。
なんだか時代が後退しているようにも感じるけど、
今は「みんなで一丸となって悪と戦う」ことが一周まわってのトレンドになっているから、
きっと私の方が時代遅れなんだろうけど、それでも。
どんなに素敵な良い言葉でも「みんな」で「同じお題目」を唱えるなんてまっぴらごめんで反吐が出ちゃうし、「みんな」で「一緒」にというところがどうしても怖い。
連帯しようとか、沈黙は賛同だとか、強制参加みたいなものはどうしても耐えられない